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【書評】民族という虚構-小坂井敏晶

書評

民族という虚構

著者:小坂井 敏晶

出版社:東京大学出版会( 2002-10 )

価格:¥ 3,360

単行本 ( 201 ページ )

ISBN-10 : 4130100890

ISBN-13 : 9784130100892





「民族同一性は虚構に支えられた現象だ」


これが本書のメインメッセージだ。

私は日本人、あの人はアメリカ人、あなたはフランス人という民族は実は虚構で作り上げられていると主張している本である。

著者は、パリ在住の社会心理学者である。パリにいながら日本人というアイデンティティを持ち、生物学的にみても根拠のない「民族」の境界線の曖昧さと脆弱さをたどっている。


「あなたは日本人ですか?」と問われれば、日本人と答える。
「なぜ日本人といえるのか?」と問われれば、日本国籍を持ち、日本語を話し、日本人の血が流れ、日本文化を共有しているからと答えるかもしれない。

著者の問題設定・問題意識はこの問いと同じである。

「日本人とか中国人あるいは日本とか中国とかいう対象はそもそも実在するのか,また存在するとしたらどういう意味で存在すると理解すべきなのかという点にある.言い換えるならば,集団現象はどこにあるのか,個人の頭の中にあるのか,集団というモノがあるのかという存在論が問題になっている」



しかし、著者はこの日本人たる根拠には、一切の客観性は無いと断ずる。

例えば、言葉の問題。
フランスでは、20世紀初めまで、フランス語以外にドイツ語、アルザス語、ブルトン語、バスク語、オック語、カタロニア語、コルシカ語を話すフランス人がいた。つまり同じ言語を話すとことと、同じ民族であるということは一致しないのである。

さらに血のつながりを考えてみると、この100年間に生まれたフランス人のうち、30%以上がフランス以外の出身者の親から生まれているが、こどもたちはフランス人である。

宗教でも同じことが言える。日本人にはキリスト教を信じるものもいれば、大半が無宗教であり、同一の神を信仰することが同一の民族であるとはいえない。

共通の血が流れ、共通の言語を話し、共通の宗教を信仰していようと、逆に共通でなくともそこには「同一民族」が存在する。
日本人とは?と突き詰めたところで、曖昧な境界線しか引けない。でも、確かに我々は日本民族に含まれている。その境は何だろうか。

著者は、「虚構」だと言う。

目に見える境界線などはない。そうではなく、ある集団が、別の集団と対立したとき、「自分の集団」と「それ以外の集団」を区別するため、民族という虚構を作り上げているのだという。

その区別をするには血族でも言語でも宗教でもなく、相手集団に出会ったとき「自分たちとは違う」部分を見出せればいいのである。あなたたちとは違う部分を主張できればいいのだ。

その主張を一つの引力として民族は発芽し、血のつながりが異なり言語を異にする人々の集まりは時間とともに「民族」として成立するという。

著者の言葉では、

「人々を対立的に差異化させる運動が境界を成立させ、その後に、境界内に閉じこめられた雑多な人々が一つの国民あるいは民族として表象され、政治や経済の領域における活動に共同参加することを通して、次第に文化的均一化が進行するのである」


まずは境界の外側があり、その後に内側という順序であるのが重要であり、まず言語や血、宗教、文化といった内側を定義した上で、それ以外の人々という内側からの規定ではない。

「民族という言葉が使用されるとき,時間の経過とともに様々な要素が変化するにもかかわらず,その集団に綿々と続く何かが存在しているという了解がある.この時間を越えて保たれる同一性はどのように把握すべきなのか.絶え間なく変化していくという認識と同時に連続性が感じられるのは何故なのだろうか」


在日の韓国人や朝鮮人に日本人のアイデンティティはあるのか?恐らくないだろう。言語や文化は日本に溶け込んでいるように見える。しかし、悲しいことに日本人が日常的に法的にも経済的にも彼らを差別している。
だが、この「我々ではない彼ら」という差別が在日韓国・朝鮮人の「民族意識」を残しているのだと思う。

非常に読み砕くには労力が必要な本書だが、ただ漠然としてきた日本人観を改めて考えさせてくれる。

この小さな島国に生まれ育ったが故に考えることしなかった民族問題を半ば強制的に思考させられる一冊。

「民俗や文化に本質はない.固定した内容としてではなく,同一化という運動により絶え間なく維持される社会現象として民族や文化を捉えなければならない」



虚構に支えられることを批判的に捉えるではなく、むしろ積極的に民族を虚構の中で定義している。

変化するのに同一であること、今の日本人は恐らく100年後には全員次の世代と変わっている。しかし、それでも日本人として次の世代も生きていくだろう。つまり変化しても同一なのだ。それは虚構に支えられながら、民族として生きながらえる。

日本しか世界を知らない人間にとっては、大きな収穫となる一冊。






境界線があるわけではなく、不断に同一化されることで同一化が加速し







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【書評】ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環-ダグラス・R・ホフスタッター

書評

ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環

著者:野崎 昭弘 はやし はじめ 柳瀬 尚紀

出版社:白揚社( 1985-05 )

単行本 ( 765 ページ )

ISBN-10 : 4826900252

ISBN-13 : 9784826900256




書評

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

著者:ダグラス・R. ホフスタッター

出版社:白揚社( 2005-10 )

価格:¥ 6,090

単行本 ( 763 ページ )

ISBN-10 : 4826901259

ISBN-13 : 9784826901253



どうやら20周年記念版も刊行されているようです。



原書は今から30年前に刊行され、日本ではその5年後に出版された一般向けの科学書。いまでは電話機の敷き物になっているGEBであるが、30年経った今でも読み返すこおとも多い、価値ある一冊である。

数学者、論理学者のゲーテル、だまし絵で有名な画家エッシャー、音楽家のバッハに共通する「自己言及」というテーマのもとに不思議の環という無限ループを炙り出す。




何よりもタイトルにあるとおりゲーテル、エッシャー、バッハを理解しておく必要があるためここにまとめておく。

  • ゲーテル
  • チェコ生まれのゲーテルは、完全性定理及び不完全性定理、連続体仮説に関する研究が有名な数学者・論理学者だ。存命であれば今は100歳越えている。基礎数学・論理学における20世紀最大の発見とされる「不完全性定理」があまりにも有名。

    「数学は自己の無矛盾性を証明できない」

    ことを示した。数学自身による証明について記述可能ならば、自身を証明する事も、否定を証明する事もできない命題が存在してしまうということだ。つまり、自己言及するとそこに矛盾が生まれてしまうということ。それが本書でのメインテーマである「自己言及」につながる。

  • エッシャー
  • マウリッツ・コルネリス・エッシャーは、オランダ生まれオランダ育ちの画家である。版画製作で有名だそうですが、絵画に数学的要素を取り入れた「だまし絵」のほうが知られている。

    エッシャー


    エッシャーの絵画は、錯覚デザインではない「だまし絵」だ。錯覚を起こさせるというメカニズムは同じだが、錯覚デザインによる錯覚は、色や形を認識する瞬間に起こる。だまし絵は、「見る」という状態が脳内で完成する直前に全体の矛盾を認識することをいう。心理学では前者を「低次知覚」といい、後者を「高次知覚」という。

    上の写真は、エッシャーのひとつの作品だが、ここで表現されているのは「無限」「自己言及」である。滝が落ちて水車が回る。水車の右にある水路から見ると、水が奥に流れるにつれて水路の位置も低くなっている。ところが水路の支柱に視点を変えると、一番低いと思ったところから滝が落ち、水路の終着点が実は一番高いところになっている。

    これは滝をモデルにしたものであるが、このような無限の連鎖、無限の自己言及というのはエッシャーの絵画では頻繁に見出せる。

  • バッハ

  • ドイツ三大Bのひとり、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ。ドイツ語でBACHとは、小川の意味なので、小川さんとでも呼ぼうかな。
    本書ではカノンやフーガの技法に見られる旋律の無限上昇から自己言及、無限の連鎖を取り上げている。
    音楽理論はあまりよく知らないが、バッハの例でいうと、潜在的な無限が存在するカノン、「諸調によるカノン」を作曲する。宮廷に招かれたバッハは、王に与えられた主題を使ってカノンを作る。一見主題からどんどん遠のいていくように聞こえるカノンは、転調を繰り返して高まってゆき、1オクターブ高くなって元の調に自然に戻ってくる。
    バッハはこの音楽の無限性を意識し、余白に「転調が高まるとともに、王の栄光も高まりゆかんことを」と記しているそうです。

    これが大バッハの本書の自己言及、無限の連鎖に通ずる部分です。





    さて本書は、主題(ゲーテル・エッシャー・・・・)と副題(不思議の環)を逆にしてもいいのでは?と思わせる。あくまでもメインテーマは自己言及と無限の連鎖である。それをゲーテルの不完全性定理、エッシャーのだまし絵、バッハの無限カノンから炙り出す。

    ちなみに不思議の環というのは、端的には階層の螺旋を上昇・下降すると意外にも元の場所に戻ってしまうという概念であるが、詳しくは本書を通じて理解してもらいたい。


    直感的に「不思議の環」の概念が分かるのは、エッシャーのだまし絵だろう。
    「さぁ出発、ぐるぐる回って、同じ場所に戻った」これが絵画から読み取れる。
    ただ直感的に分かるのはこの程度で、後半になればなるほど、数学的記述が多くなって恐らく脱落率は後半は急上昇しそうな本だ。

    ただ、いま流行りの脳本なんかを読むよりは、本書を読んだほうが脳トレにはなる。
    数学・美術・音楽あまりにも遠い3つが、ひとつになる瞬間は甘美である。

    斜め読みでも通読するべきだ、全体理解にはかなりの根気がいるが一部理解でもいいから読みたくなる一冊。


    読者は最後にきっと思う、「で、何を書いたの?」と。

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    【書評】日本の難点-宮台 真司

    書評

    日本の難点 (幻冬舎新書)

    著者:宮台 真司

    出版社:幻冬舎( 2009-04 )

    価格:¥ 840

    新書 ( 286 ページ )

    ISBN-10 : 4344981219

    ISBN-13 : 9784344981218




    ブルセラ論争から改憲論まで幅広い展開をみせる宮台真司の新書である。なぜ新書で?と思わせるほどの重厚な内容だ。軽く手にとってスラスラと読み進めることは不可能であり、横文字・造語・難解なジャーゴンが目白押し。しかし、著者は言う。

    「本書はこれ以上ありえないというほど、かみくだれて書かれています。本書に難解なところがあるとすれば、それは記述の難解さではなく、事柄の難解さによるものです。通読すれば眩暈をするでしょうが、それは圧倒的情報量による眩暈ではなく、<社会>の複雑さによる眩暈でしょう」


    そうかねぇ。わざわざ難解な言葉を選んでいるようにしか見えない。むしろ、社会の難解さという事を前面に出しながらも、本書レベルが咀嚼できない程度なら、社会を評価する資格は無いと突きつけられているような気持ちになる。

    本書を読んで思った。10万部を越すベストセラーとなった本書だが、誰が理解し誰が共感し、誰がその社会を実現しようとしているのかと。この部数が指し示しているのはいわゆる一般大衆の手元に届いているということだが、本棚にしまってあるパーセンテージは高いのではないか。

    全体的にみてトピックス自体は、いまこの時代にぴったりの構成だ。

    1章・人間関係はどうなるのか(コミュニケーション論・メディア論)
    2章・教育をどうするのか(若者論・教育論)
    3章・幸福とはどういうことなのか(幸福論)
    4章・アメリカはどうなっているのか(米国論)
    5章・日本をどうするのか(日本論)

    この中で彼の持論の「軽武装・対米依存」から「重武装・対米中立」を宣言する部分では、「重武装とは、対地攻撃能力を中核とした反撃能力による攻撃抑止能力を備えること」で、それに続けて「それには専守防衛の憲法9条を変える必要がある」と説く。また、昨今問題になっている企業による新卒内定者の取り消し問題については、問題は学生側にあると説く。端的には予見性なし。甘いと。

    このあたりは何ら前提知識なしにでも読み進められる。抽象度が低い部分といえる。しかしその後、一気に抽象度を上げて日本全体・社会全体を包含した日本の難点に処方箋を下す。単著でこの40を超える論点に処方箋を下すというのはさすが宮台である。

    あまりにも極端で、あまりにも過激に見えるかもしれないがそれを高々と宣言できる、それがあまりにもスカっとしている。モヤモヤがない。宮台ファンが若者に多いのも、このスカっとさが根底にあるのかもしれない。

    日本の総括を一人の人間にさせてしまうというのは、今の論壇の衰退とも感じ取れる。

    宮台を知らない人に是非読んでもらいたい一冊。



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    【書評】ニッポンの思想-佐々木敦

    書評

    ニッポンの思想 (講談社現代新書)

    著者:佐々木敦

    出版社:講談社( 2009-07-17 )

    価格:¥ 840

    新書 ( 352 ページ )

    ISBN-10 : 4062880091

    ISBN-13 : 9784062880091





    本書は1980年代から現在に至るまでの日本の思想の変遷を辿ったものであり、狙いは「ニューアカ以降の現代思想の歴史教科書」である。


    まず80年代を浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人の4人を中心に、90年代には福田和也、大塚英志、宮台真司、そして00年代では東浩紀を取り上げて展開する。

    浅田彰が当時の最先端の哲学を扱った『構造と力』で論壇デビューし、哲学本であるにも関わらず15万部を超えるベストセラーとなり、中沢新一が『チベットのモーツァルト』でデビューしたところから本書は始まる。

    この2人によって「ニューアカデミズム」という名の現代思想ブームが始まるわけである。本書はどの年代についても区切りよく言及しているが、
    全体として80年代~90年代に紙面の大半を割き、浅田・中沢の2人に共通のターム「差異化」で共通項を探り、その一方で決定的な思想の違いにも触れており、ニューアカの象徴である2人の全体像を掴むことができる。

    柄谷あたりの時代に移って、蓮實・柄谷の思想の違いやそれを福田和也がどっちもどっちと言い切っていると著者が言い切っている部分、少し引用すると、

    「柄谷氏の批評文は、読者に思考を上演してみせる一方で、読者に思考停止を促してもいる。批評家たちを含む読者は、柄谷氏の作品を読み、自分が思考したかのような錯覚を抱く。しかしそれは自らの頭脳を柄谷氏に譲り渡したにすぎない。」と福田は喝破しています。この指摘は新鮮かつ見事なもので、柄谷行人自身でさえ、思わず首肯してしまったのではないかと思われます。それまでは、戦略的に晦渋な文体を駆使する蓮實重彦とぶっきらぼうなまでに明晰な文体をもつ柄谷行人は、対照的だとみなされてきましたが、福田はいわばどっちもどっちだと言ってのけたわけです。(P187-188)


    現代思想の全体像を見る視点がないとなかなか気付かない部分であろう。福田の指摘にはドキっとするが・・。


    そして最後の章では著者が00年代最強とよぶ思想家、東浩紀の登場とその思想で終わる。

    東浩紀が『存在論的、郵便的-ジャック・デリダについて』を上梓したときの衝撃的なデビューを、著者は考えうる中で最高の形でデビューしたと語っています。それはその本の帯には浅田彰によって

    東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものになったことを認めたのである。


    と記されていたからである。

    この最強の東浩紀のキーワードである、「おたく」「動物化」「データベース消費」を、そしてなぜ彼が最強といわれるのか、なぜ彼がゼロ年代一人勝ち状態にあるのかについて語っている。



    本書は、「専門書」ではなく「入門書」に位置づけられる。また、著者の主観的な意見が非常に多い。逆にそこが思想や哲学をより身近に感じさせてくれている。

    思想家を紹介するにも、柄谷と浅田はどこで初めて出会ったようだ、などとまるで馴れ初めを紹介してるような部分も多い。ただ、今までの思想入門書に多くありがちな思想家<思想内容に偏ったものよりも、思想家に着眼している部分が多く新鮮である。

    決して簡単な内容ではないが、ゼロ年代の思想しか知らない読者に読んでもらいたい一冊。

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