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【書評】ヘッテルとフエーテル 本当に残酷なマネー版グリム童話-マネー・ヘッタ・チャン

書評

ヘッテルとフエーテル 本当に残酷なマネー版グリム童話

著者:マネー・ヘッタ・チャン

出版社:経済界( 2009-11-25 )

価格:¥ 1,050

単行本(ソフトカバー) ( 152 ページ )

ISBN-10 : 4766784588

ISBN-13 : 9784766784589




しいて言うなら、「ユーモラスな社会風刺本」である。そこに「現代の」とつけたほうがいい。

幼少・少年期に童話から得たものは多く、善悪の判断や協調性の大切さなどを教わったはずだが、マネーの仕組みだけは童話から学んだ覚えが無い。マネーの話を童話から学ぶことはできなかった。そこへ登場したのがこのマネー版グリム童話だ。

とはいえ、童話といっても、あくまでも現代日本を取り扱った書籍で、古典化するものではなさそう。短編集になっており、トピックスとしては、超一流金融機関の詐欺まがいの融資、最近流行の社会企業のビジネスモデルとカラクリ、先進国から新興国へのODAの実像、最近広告をバンバン出している弁護士による債務相談などなど、マネーにまつわる風刺集だ。

分かりやすい例では、実名は出していないが、明らかな「カツマー社会」への鋭い風刺は、爽快感すらある。
一体いつどこから沸いてきたのか、巷で増える勝間信奉者たち。競争社会で生き抜く手法が、自転車通勤の等身大の女性から発せられたのだから、時代の要請でもあっただろう。しかしそのカツマーに待ち受ける将来へ警告ともいえる痛烈な批判。

これは詐欺の手口を紹介する本ではないのは確かで、紹介されいている事案も違法なものではない。どちらかといえば、あまりにも世の中がクリーンでキレイだと思い込んでいる人やビジネスモデルを理解していない人への忠告・説法集に類するかなと。

この書籍を読むに当たって、カツマーという存在を知らない限り「第2話 カネヘルンの笛吹き」を風刺だと思って読むことは出来ないだろうし、その他トピックスに関してもバックグラウンドの知識がなければ大して面白くないのでは?と思う。

一見して誰にでも分かる本のようではあるが、著者の意図どおりに楽しめるとは限らない。

悪魔の辞典のような、痛烈な社会風刺を求める日本にはぴったりの一冊。


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【書評】ラ・ロシュフコー箴言集-ラ・ロシュフコー

書評

ラ・ロシュフコー箴言集 (岩波文庫)

著者:ラ・ロシュフコー

出版社:岩波書店( 1989-12 )

価格:¥ 903

文庫 ( 370 ページ )

ISBN-10 : 4003251016

ISBN-13 : 9784003251010




著者のラ・ロシュフコーは、正式にはラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世といい、17世紀フランスの貴族である。

社会風刺というよりは、むしろ辛辣な人間風刺であろう。

箴言集というだけあって、言葉は明快にして鋭利。まるで鋭利な刃物のような切れ味であり、人間の本質であって欲しくないと言わざるをえないほど辛辣である。

1つ1つ書評などできない。いくつかの公爵のお言葉だけで鋭利さは伝わるだろう。

我々は、我々と同意見の人でなければ分別ある人とはまず言わない。

一度も恋の話を聞かなかったなら、恋なんか決してしなかったろうと思われる人間がたくさんいる

凡人は概して 自分の能力を超えることを全て断罪する

恋する男女が一緒にいても全然退屈しないのは、いつも自分たちのことばかりしゃべっているからである



洞察に優れた見方と読むか、穿った見方と読むか、紙一重の本だ。

ただ、この箴言集を超える箴言集は数世紀たっても刊行されていないというのは事実である。例えあまりにも鋭いとはいえ、これが読み継がれているという事実は、社会がこの見方を欲している証ではなかろうか。

自らに向けられた言葉と思った瞬間に、凍り付いてしまうようなクールな一冊。

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【書評】悪魔の辞典-アンブローズ ビアス

書評

新編 悪魔の辞典 (岩波文庫)

著者:アンブローズ ビアス

出版社:岩波書店( 1997-01 )

価格:¥ 819

文庫 ( 318 ページ )

ISBN-10 : 4003231228

ISBN-13 : 9784003231227




その名も『The Devil’s Dictionary』、1911年に刊行された辞書である。
ただし、単語は平凡でも、定義内容は痛烈な社会批判、ブラックユーモアに溢れたセンセーショナルな辞書である。


エッジの効いた単語をいくつか。

幸福…他人の不幸を眺めることから生ずる快適な感覚。

歯医者…お前の口に金属を入れ、お前のポケットから硬貨を引き出す男。

平和…二つの戦争の時期の間に介在する、だまし合いの時期。


この悶々と頭によぎりそうな思いを、見事に一文にしてくれている。

社会を批判するということは、いつの世にも必要なことである。批判となる対象は時勢によって異なるだろうが、悪魔の辞典ではそれが普遍なのだ。いつの世にも当てはまる事項とそれへの批判なのだ。

だからこそ、100年たっても色褪せずに改編なく行き続けている。


政治…主義・主張の争いという美味のもとに正体を隠している利害関係の衝突。私益のために国事を運営すること


本日9月16日をもって、民主党による政権が始まった。私益の闘いにならぬよう祈るのみである。

誰もが持つ社会への悶々とした思いを、至極明快な言葉で痛烈に批判してくれる気持ちいい一冊。


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【書評】ヴェニスの商人の資本論-岩井克人

書評

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

著者:岩井 克人

出版社:筑摩書房( 1992-06 )

価格:¥ 998

文庫 ( 317 ページ )

ISBN-10 : 448008004X

ISBN-13 : 9784480080042





1992年に刊行された岩井克人氏による経済学オムニバス論文集。経済思想に興味のある方であれば、絶対に抑えておくべき書物である。

まずは、目次を。

  • 資本主義(ヴェニスの商人の資本論;キャベツ人形の資本主義;遅れてきたマルクス)
  • 貨幣と媒介(媒介が媒介について媒介しはじめる話;広告の形而上学;ホンモノのおカネの作り方;はじめの贈与と市場交換;パンダの親指と経済人類学)

  • 不均衡動学(不均衡動学とは;個人「合理性」と社会「合理性」;マクロ経済学の「蚊柱」理論;「経済学的思考について;知識と経済不均衡)
  • 書物


  • 本書の構成は、「資本主義」「貨幣と媒介」「不均衡動学」「書物」の4部構成、全300ページ程度の書物であり、1つの議論・論文は数ページで完結している。

    約20年前の刊行であるが、その議論は全く色褪せることなく現代社会に当てはまる。
    それは普遍的な議題(貨幣の存在意義や広告の存在意義、ヴェニスの商人と資本主義システムの根底など)を取り上げていることもあり、かつ岩井氏の先見性にも目を見張る。

    岩井氏は本書をもって評論家としての活動をスタートさせている。本職は経済学者であり新古典派経済学の研究とその批判的活動の不均衡動学を論じ、最近では法人論についての書物をよく目にする。
    (ちなみに、岩井氏は2009年度をもって東京大学を退官するそうである。)

    さて、本書は特定のテーマに則することなく社会科学全般に論説を加えている。

    その中でも、「広告の形而上学」は特に興味深い。本論文は大学入試試験に頻繁に取り上げられており、現代文の科目で登場している。

    つまりテーマ性に加えて文章の論理性に隙がないということであろう。

    さて形而上学とは、形而下学とは対にある学問であり誤解を恐れずに言えば「目に見えないものを問う、存在自体を問う学問」といえる。

    我々現代社会に生きる者は毎日相当な数の広告を目にする。これは経験的にも誰にでも分かることである。しかしここで取り上げられている広告はその意味での広告、目に見えるという広告ではない。

    本来商品について語る媒介としての広告が、同時にそれ自身商品となって他の商品とともに売り買いされてしまう




    広告というもの自体はただの媒介なのであって、本来はその商品の価値を語るだけであって、広告には価値があるものではない。もし消費者にモノの価値が何も媒介せずに伝われば存在する必要もない。
    この広告の存在自体を問うことが、形而上学の土台で広告を語ることであり、本論文のメインテーマである。

    本来、価値のない広告に価値が生まれる瞬間とはどんなときだろうか。

    それは差異が生まれるときである。Aという広告とBという広告、広告自体に違い=差異があるとする、その瞬間、価値が生まれる。
    つまり、広告においても差異が価値を生むという岩井氏の論理が当てはまるのである。



    広告と広告とのあいだの差異――それは、広告が本来媒介すべき商品と商品とのあいだの差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。それゆえそれは、たとえばセンスの良し悪しとか迫力の有る無しとかいうような、違うから違うとしか言いようのない差異、すなわち客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異としてあらわれる。

    だが、広告が広告であることから生まれるこの過剰であるがゆえに純粋な差異こそ、まさに企業の広告活動の拠って立つ基盤なのである。


    1992年時点では企業が投下する広告費はGDP比率1パーセントであったのが、2008年では5%を超える勢いである。客観的な対応物を欠いた、広告の一人歩き時代である。


    広告の存在が始まり、広告に価値を見出し、広告合戦に陥るプロセスを本論文を通じて咀嚼するとこうなる。

    資本主義では、商品やサービスを享受するには「貨幣」と交換する必要がある。

    The proof of the pudding is in the eating.

    プリンがプリンであることの証明は食べてみることである。


    この論より証拠を実現するためには、資本主義では貨幣と商品を交換しなければならない。

    購買しなければ、プリンがおいしいプリンということが分からないのが資本主義。

    あっちのプリンよりこっちのプリンのほうがおいしい、だからまずはこっちのプリンを買ってもらいたい。買わずにも、おいしいプリンだと分かってもらいたい。これが広告の始まりである。

    広告が存在し始めてしまったら、「おしいそうなプリン」と見える広告を作ることに企業は没頭してしまう。

    プリンは食べてみないと味は分からない、味が分からないのであれば、あっちのプリンでもこっちのプリンでも一緒だ。であれば、「こっちのほうがおいしそうに見えるプリン」と消費者が思えば買ってくれる。広告に差異があれば買ってくれる。食べる前に、差異のある広告活動を通じて「おいしいプリン」と思わせるのである。

    広告の存在から広告自体の差異が始まるには時間はかからなかっただろう。


    毎日目にする広告にうんざりしたら是非読んでもらいたい一冊。

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