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【書評】なぜ君は絶望と闘えたのか-門田 隆将

書評

なぜ君は絶望と闘えたのか

著者:門田 隆将

出版社:新潮社( 2008-07-16 )

価格:¥ 1,365

単行本 ( 255 ページ )

ISBN-10 : 4104605026

ISBN-13 : 9784104605026



光市母子殺害事件の記録であり、被害者の夫・本村洋氏と司法との戦いの記録である。
タイトルにある君は、本村氏であり本村氏の9年間を記録したものである。

この事件は、2008年に死刑判決が出るまでの9年間、各メディアで大々的に取り上げられたため広く知れ渡っている事件であるが、1999年4月14日に山口県光市で発生した凶悪犯罪。当時18歳の少年により主婦(当時23歳)が殺害後暴行され、その娘(生後11カ月)の乳児も殺害されたのが事件概要である。

この事件をきっかけに司法の壁は崩壊した。「永山基準」「相場主義」「前例尊重」で死刑判決を避けてきた壁は、被害者尊重、厳罰化の社会へと進んでいくことになる。

タイトルの「なぜ君は絶望と闘えたのか」、支援してくれる周りの人間や本村氏の強い執念に因るところであるが、根底にあるのはこの日本において、「死刑」が存置されているからであろう。

世界的に死刑廃止の潮流の中、日本では死刑という極刑がある。だからこそ、氏はそれを望むことが許された。存在するからこそ、闘い続け求め続けたのだ。

しかし、加害者は少年、少年法の保護下にある。ここが本村氏を苦しめた。

「早く被告を社会に出して、私の手の届くところに置いてほしい。私がこの手で殺します」


「司法に絶望した、加害者を社会に早く出してもらいたい、そうすれば私が殺す」




復讐する権利は、司法が独占している。その司法は少年への極刑適用は過去の事例からして、永山基準からしてありえない。だから、本村氏は自ら命を絶つ覚悟で、自らの手で相手に死を求めた。

しかしこの発言の後、司法を改革していくことによって少年Fへの死を求めるようになっていく。

言葉は悪いが「殺す」から「殺してもらう」への態度の変化、そこから本村氏の死刑・司法との闘いが始まる。

本書では、一度は絶望した司法に再度委ねることとなり、そして最後に死を勝ち取った軌跡が事細かに記録されている。決して、叙述でも記述でもなく「記録」という言葉が当てはまる文章だ。小説的な文章にも見て取れるが、これはあくまで記録であって全てが事実なのだ。本村氏の内なる言葉も吸い上げられた文章は、記録として描かれているのだ。


「労働も納税もしない人間が何を言ってもそれは負け犬の遠吠えだ。君は社会人たりなさい」


このような胸の詰まるような言葉をかけてくれた上司の存在も忘れられない。
社会人でいることが、社会を動かすためには必要である。勤労の義務、納税の義務を果たしそこで初めて社会に発言できる、今の社会にずしりと重い言葉だ。

9年間という長い年月をかけて、地裁・高裁・最高裁と戦い抜き最終的に元少年への死刑判決を勝ち取った本村氏には脱帽するしかない。

一貫して論理的で整合的な言動を続ける本村氏、恐らく被害者であれば憎悪や悲しみの感情に流されてしまう中で、むしろ感情的になってしまったのは読者なのではないかと思わせるような本書である。

メディアに対して批判的意見もあるであろう本村氏にとって著者も元出版社メディア側の人間である。だがしかし、著者には語り、心を打ち明けている。著者の人間性のなせることだ。

そして最後に最高裁で差し戻され、広島高裁差戻し審にて死刑判決がでた。本書と同時に判決文も読んでみることを勧める。

なぜ、最高裁で差し戻されたのか。最後の一文にはこうある。

これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。



そして広島高裁にて、死刑判決が下された。

主 文
       第一審判決を破棄する。
       被告人を死刑に処する。


第一審判決は,公判審理を経るにしたがって,被告人なりの一応の反省の情が芽生えるに至ったものと評価できるなどとし,家庭裁判所の調査においても,その可塑性から,改善更生の可能性が否定されていないことをも併せ考慮して,矯正教育による改善更生の可能性がないとはいえないなどと判断し,無期懲役刑を選択したものであり ,差戻前控訴審判決は,被告人が,知人に対し,本件を茶化したり,被害者らの遺族を中傷するかのごとき表現を含む手紙を何通も書き送っていることを踏まえながらも,第一審判決の判断を是認したものである。両判決は,犯行時少年であった被告人の可塑性に期待し,その改善更生を願ったものであるとみることができる。ところが,被告人は,その期待を裏切り,差戻前控訴審判決の言渡しから上告審での公判期日指定までの約3年9か月間,反省を深めることなく年月を送り,その後は,本件公訴事実について取調べずみの証拠と整合するように虚偽の供述を構築し,それを法廷で述べることに精力を費やしたものである。被告人が,そのような態度に出たのは,20名を超える弁護士が弁護人となり,被告人の新供述について証拠との整合性を検討し,熱心な弁護活動をしてくれることから,次第に,虚偽の供述をすることによって自己の刑事責任が軽減されるかもしれないという思いが生じ,折角芽生えた反省の気持ちが薄れていったのではないかとも考えられないではない。しかし,これらの虚偽の弁解は,被告人において考え出したものとみるほかないところ,当審公判で述べたような虚偽の供述を考え出すこと自体,被告人の反社会性が増進したことを物語っているといわざるを得ない。


現時点では,被告人が,反省していると評価することはできず,反省心を欠いているというほかない。



遺族の被害感情は峻烈を極めていること,社会的影響も大きいことなどの諸般の事情を総合考慮すれば,被告人の罪責はまことに重大であって,各殺害の計画性が認められないこと,被告人の前科・非行歴,生育環境,犯行当時18歳になって間もない少年であること,精神的成熟度,改善更生の可能性,その他第一審判決後の事情等,被告人のために酌量すべき諸事情を最大限考慮しても,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも,極刑はやむを得ないというほかない。


(強調は筆者)


死刑廃止の世界的な流れの中で徹底した死刑存置の態度を一貫し、誰にも動かせなかった司法の壁を打ち破った。

著者は加害者Fに判決後に面会し、反省の声を聞いている。

死刑という刑罰があってこその反省、反省したところで変えられるものは何もない。
しかし、死刑という極刑に反省をさせる自浄作用があった。

死刑存置か廃止か、死刑を復讐の手段と考えるか反省の機会の提供と考えるか。考えさせられる一冊。




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